とりあえず今は、日本縦断。
日本をちゃんと見てみたい。だから見に行くことにしたんです。
スタートは夏、ゴールは冬(予定)。
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日本を回る理由 1
世界は広い。
日本からまだ出たことがなかった頃、私はアメリカもヨーロッパも同じだと思っていた。
同じいうと語弊があるけれど、「欧米」とはよく言ったもので、アジアに対して漠然と対照的な文化圏というニュアンスで、ひとくくりにしていた感があった。
学生の時に初めて日本からヨーロッパに行った。行先はハンガリー。
ハンガリーで生活をしてみて、ヨーロッパ独特の空気に触れた。
そこは歴史を重んじ、家族を大切にし、自分の意志を持ち、風景を守り、自然と共に生き、今あるもので生活をするという場所だった。
それを肌で学んだ。こういう場所なのかと。
そして「外国人」という立場上、色々な国籍の人と知り合う。コミュニケーションする。
もちろんアメリカ出身の人とも話す機会が多々あった。
そして気づいた。ヨーロッパとアメリカの性格はまったく違うということに(当たり前だけど)。
ここが私の「欧米」が「欧」と「米」に完全に分かれた最初のポイントだった。
当たり前のことだけど、それぞれの国の人たちと話してみて初めて実感する、文化やバックグラウンドの違いがある。
それは「欧」と「米」の違いに限らない。ヨーロッパの中にあるそれぞれの国でも、国境を越えるだけでたしかに変わる。言葉はもちろん、文化も、考え方も、性格も。
「欧米」が「欧」と「米」に分かれたように、その後、ヨーロッパの様々な国を見て、その国の人と話すうち、徐々に「ヨーロッパ」というくくりも、私の中でだんだん不自然になってきた。
それは、例えば「アジア」というくくりの中には「日本」もあれば「インド」もあり「フィリピン」もあって、だけどもそれぞれがまったく違う文化を有していてひとくくりにできない感覚とほぼ同じだった。
ハンガリーとオーストリアは違う。ルーマニアも違う。ましてドイツ、ましてスペイン。
国境を越えれば、ここまで変わる。自分が日本にいたときは、ヨーロッパ諸国の違いなんて、戦争で国境もコロコロ変わっているのだから、微々たるものだと思っていたけれど、大変な思い違いだった。
国が変われば、全てが変わる。そして、それぞれの国が、自分の国に誇りや帰属意識を持っている。
その事実だって、ここでこのように文章にしてみれば、情報として当たり前のもの。
けれども、それを肌で感じ、知識としてではなく感覚として認識することで、私の中の考え方はずいぶん変わった。
テレビやネット、出版物などのメディアを通じて、簡単に情報が手に入る時代。
行かなくても知れることは多く、世界は狭くなったという人が多い。
けれども、世界は相変わらず広いのだと思う。
「知らない世界」が「知ったつもりになっている世界」に変わっただけで。
ヨーロッパの国々を見比べるだけで、世界の広さ、多様さに愕然とするというのに、
これが北米、南米、アフリカ、中東、アジア、オセアニア・・・と無限に広がっているのだ。
見て、聞いて、感じて、考えなければ、わからないことがたくさんある。
実際に触れずに知った気になっていることがいかに多いか。
もしかしたら、情報があるために「知っている」と驕ってしまう分、タチが悪いのかもしれない。
さて、こんなことを考えながら帰国したもんだから、当然芽生えるひとつの思いがあった。
私は日本人なのに、行ったことのない場所がたくさんある。
知識として漠然と持っている、各地方の大味なイメージ。
これこそ、自分にとっていちばん危うい情報なんじゃないか、と。
行ったことのない土地、食べたことのないもの、話したことのない人。
地方の特色は知識としてあるものの、行かなければ、見なければ知ることのできないことがきっとたくさんある。
私は日本が好きだ。
こんなに自分以外の誰かを思いやれる国民性を持つ国に、未だ出会ったことがない。
海外から日本という国を客観的に見つめなおして、日本人として生まれてきてよかったと思えるようになった。
だからこそ、この国をちゃんと見たい。ちゃんと知りたい。
そしてきっと、日本を知れば知るほど、私の世界はまた、広がっていくのだと思う。
日本からまだ出たことがなかった頃、私はアメリカもヨーロッパも同じだと思っていた。
同じいうと語弊があるけれど、「欧米」とはよく言ったもので、アジアに対して漠然と対照的な文化圏というニュアンスで、ひとくくりにしていた感があった。
学生の時に初めて日本からヨーロッパに行った。行先はハンガリー。
ハンガリーで生活をしてみて、ヨーロッパ独特の空気に触れた。
そこは歴史を重んじ、家族を大切にし、自分の意志を持ち、風景を守り、自然と共に生き、今あるもので生活をするという場所だった。
それを肌で学んだ。こういう場所なのかと。
そして「外国人」という立場上、色々な国籍の人と知り合う。コミュニケーションする。
もちろんアメリカ出身の人とも話す機会が多々あった。
そして気づいた。ヨーロッパとアメリカの性格はまったく違うということに(当たり前だけど)。
ここが私の「欧米」が「欧」と「米」に完全に分かれた最初のポイントだった。
当たり前のことだけど、それぞれの国の人たちと話してみて初めて実感する、文化やバックグラウンドの違いがある。
それは「欧」と「米」の違いに限らない。ヨーロッパの中にあるそれぞれの国でも、国境を越えるだけでたしかに変わる。言葉はもちろん、文化も、考え方も、性格も。
「欧米」が「欧」と「米」に分かれたように、その後、ヨーロッパの様々な国を見て、その国の人と話すうち、徐々に「ヨーロッパ」というくくりも、私の中でだんだん不自然になってきた。
それは、例えば「アジア」というくくりの中には「日本」もあれば「インド」もあり「フィリピン」もあって、だけどもそれぞれがまったく違う文化を有していてひとくくりにできない感覚とほぼ同じだった。
ハンガリーとオーストリアは違う。ルーマニアも違う。ましてドイツ、ましてスペイン。
国境を越えれば、ここまで変わる。自分が日本にいたときは、ヨーロッパ諸国の違いなんて、戦争で国境もコロコロ変わっているのだから、微々たるものだと思っていたけれど、大変な思い違いだった。
国が変われば、全てが変わる。そして、それぞれの国が、自分の国に誇りや帰属意識を持っている。
その事実だって、ここでこのように文章にしてみれば、情報として当たり前のもの。
けれども、それを肌で感じ、知識としてではなく感覚として認識することで、私の中の考え方はずいぶん変わった。
テレビやネット、出版物などのメディアを通じて、簡単に情報が手に入る時代。
行かなくても知れることは多く、世界は狭くなったという人が多い。
けれども、世界は相変わらず広いのだと思う。
「知らない世界」が「知ったつもりになっている世界」に変わっただけで。
ヨーロッパの国々を見比べるだけで、世界の広さ、多様さに愕然とするというのに、
これが北米、南米、アフリカ、中東、アジア、オセアニア・・・と無限に広がっているのだ。
見て、聞いて、感じて、考えなければ、わからないことがたくさんある。
実際に触れずに知った気になっていることがいかに多いか。
もしかしたら、情報があるために「知っている」と驕ってしまう分、タチが悪いのかもしれない。
さて、こんなことを考えながら帰国したもんだから、当然芽生えるひとつの思いがあった。
私は日本人なのに、行ったことのない場所がたくさんある。
知識として漠然と持っている、各地方の大味なイメージ。
これこそ、自分にとっていちばん危うい情報なんじゃないか、と。
行ったことのない土地、食べたことのないもの、話したことのない人。
地方の特色は知識としてあるものの、行かなければ、見なければ知ることのできないことがきっとたくさんある。
私は日本が好きだ。
こんなに自分以外の誰かを思いやれる国民性を持つ国に、未だ出会ったことがない。
海外から日本という国を客観的に見つめなおして、日本人として生まれてきてよかったと思えるようになった。
だからこそ、この国をちゃんと見たい。ちゃんと知りたい。
そしてきっと、日本を知れば知るほど、私の世界はまた、広がっていくのだと思う。